「で、どうしたいの」
15年以上前、初めてかかった精神科医に言われた言葉はドライで冷ややかな印象だった。
「仕事が忙しく息切れがする、疲れが取れない。最近イライラがおさえられないことも多い」ということをとりとめなく伝えたので先生も「だから何」と思ったかもしれない。
かかったのは大病院の精神科、クリニックの探し方もわからず他の科でお世話になったことがある病院なら安心かと思い受診をしたが、選択を誤ったかもしれない。
でも、疲れ切って生活にも仕事にも支障が出てどうにもならない気持ちで初めてかかった精神科。
自身の状況を言葉でうまく表現できる患者さんは 果たしてどれくらいいるだろうか。
言語化できない部分をもう少し理解して深堀りしてくれてもいいのにと、当時は思ったものだ。
先生には「薬をください」とだけ伝え、確かパキシルという抗うつ剤とエビリファイという抗精神病薬を処方された。
飲んではみたが、薬の効果が定着するのに時間がかかることも知らない私は数日飲んで変化を感じられず勝手にやめ、
不誠実に思えたその医者にかかるのも嫌で、それきり通院もしなくなった。
これが人生最初の精神科受診。その後私は今回を含む再発を3回繰り返している。
ちょっと受診遍歴を回想してみたい。
♠ 1st.インパクト
15年前 当時、私は高齢者施設の認知症フロアで主任を任され、
分刻みの介護業務に重い認知症の方の個別支援、ケアプランや月次報告など書類の作成、人材育成や各種会議の出席などをしながら夜勤にも入っていた。
特に月経がひどくなり始めたのもこの頃で、4時間きっかりで切れる鎮痛剤を滋養強壮剤で流し込み、ジェットコースターのように次々と業務をこなす。
夜勤明けの朝にはアドレナリンだかドーパミンだかが過剰に分泌されハイテンションになっていて、それをみんな「明けのテンション」と呼んでいた。
休憩中、その時まだ室内にあった喫煙コーナーで「なんか薬漬けだよね」なんて言いながら、
勤務が終わった後、バキバキになった体でもなぜか吉野家で牛丼大盛りにビールを一杯ひっかけて帰ることもざらだった。
みんなきつい仕事の中で出てくる不調を自分なりに対処しながら日々乗り越えていた。
でもある時、これまでにない異変に気が付いた。仕事からの帰宅後や休日になると体が全く動かないのだ。
今の主人とは既に同棲していて家事全般は私の役目だった。
畳の部屋でぼんやり座ったまま思考は回る。洗濯しなきゃ、ご飯作らなきゃ、風呂に入らなきゃ…地蔵のはじまり。
少しずつ追い詰められての人生初精神科受診も徒労に終わり、じゃぁどこに助けを求めるか…、手詰まり感を抱きながらも、”いつも以上に疲れているだけ、しっかり休めば回復する、私以上にもっと苦労している人もいる、修行が足りない、休暇を取りどこかへ修行にいって鍛えなおしてこよう”などと本気で考えた。
しかし、同居人と無事入籍をし晴れて夫婦となってからほどなくして思いがけない転機がやってくる。主人の転勤が決まり、300㎞離れた東北の地に転居することに。修行は不要となった。
人手不足の中 主任クラスが退職するのはなかなか大変で、引継ぎ業務にも骨が折れたが、
これが終われば過密すぎる業務から解放されることがモチベイションとなり踏ん張れた。
ギリギリセーフ。
新しい住まいに落ち着いたころには地蔵現象も消失し、それからの生活では精神科のお世話になる必要性は長らく生じなかった。
♦ 2nd.インパクト
次に医療のお世話になるのはその10年後。2018年。
2010年に東北から関東に戻り、数年でまた転勤のため転居をしてすっかり定着したころ、
私は福祉を離れ飲食業でパートタイム勤務。残念なことにとても雰囲気の悪い職場に入ってしまっていた。
郷に入っては郷に従えと、独特の文化を尊重し 合わせて動いていたが、入社初期からパートの”酋長”に目をつけられ集中砲火を浴び続ける羽目に。酋長と仲良しの”副酋長”もひどいもので、それ以下の人たちは2人に服従するので、結果集団いじめという形になった。
僅かながらに味方をしてくれる人が現れたのでそれを救いとして1年間我慢した。
が、やはりある時から異変が現れ始める。今度は地蔵現象だけでは済まない。
拒絶感から電車に乗れない、血が逆流するようなざわざわ感がする、仕事に入り始めると息苦さを感じる…。
勤務中に体が言うことを聞かなくなりだすともう末期と判断して理解あるマネジャーに退職を申し出た。
マネジャーは状況を知っていたし、守ってあげられなかったと詫びてもくれ、要求は受け入れられた。
設定した退職日までやり通したかったが、体調は悪化する一方。マネジャー判断で予定を繰り上げて逃がしてくれた日のことは忘れない。
それから会社では事が大きくなり、私の状況がクレーム対応班に報告され、私も後日聴取を受けた。
既に長時間の外出が無理な体になっていたので、事の経緯を文書で提出したうえで、勤務先ではなく本社で、30分程度の聴取で終了。
私自身はハラスメントをした相手方に処罰も賠償も求めるつもりはなく、むしろ数人の心ある方が仲良くし続けてくださったことに感謝していることを伝えた。
後に酋長はじめ統括部長も処分を受け、それまであった暗黙の厳しいルールや上下関係も解消されたと聞く。
というような出来事を経験し、退職後は前回の時のようにストレス状況から離れてすぐに回復とはいかず、我慢の糸が切れ安堵した途端に症状は悪化した。
それこそ精神科に行くしかないと、ネットで家から近いクリニックを予約。
15年前の大病院とは違い、初めに臨床心理士から 現状とそれまでの経緯を30分ほどかけてヒアリングを受けた後診察となった。この時も、あまりまとまりのない話し方をしたかもしれないが、心理士の方が復唱して整理しながら記録を取ってくださった。
待合に戻って再び呼ばれ診察室に入ると、医師はヒアリングの内容から事のすべてを理解したように「しばらく薬で様子見た方が良さそうですね。一番弱い安定剤から試してみましょうか。まずはしっかり飲んで。この薬はいつでもやめられる薬だから、徐々に外に出るときだけ飲むとか、いずれは外に出るときにお守りとして携帯する方向で調整していきましょう。家の周りだけでも、可能な範囲で外に出るようにしてみてね。」
処方されたのはクロチアゼパム(リーゼのジェネリック)。
高齢者施設に勤めていた時にも軽い眠剤として服用しているお年寄りが多かったので、安心感を持った。
実際飲むと不安が和らぎフラットでいられる。
家を出る1時間前に服用し買い物や受診には出ることができた。
寝る前に飲めばぐっすり眠れる。
こんな米粒くらいの小さな薬にそんな効果があるなんてと驚きもした。
先生が言った通り、少しずつ外出頻度を増やし、2か月後にお守りにして外出できるようになり、無事再就職。前職の障害者支援施設に巡り合うことができた。
再就職をしてからも緊張が強かったため、しばらくの間は適宜頓服薬としてクロチアゼパムを飲み続けたが、仕事が楽しくなってくるとだんだん必要なくなり、そのまま服用も受診もフェイドアウトしていった。
♧ 3rd.インパクト
3度目にお世話になったのが前職に勤め始めて4年目に入っていたころ。既に事業所の管理責任者となっていた。
詳しくは触れないが、ダメイジの大きな出来事があり、気の滅入りが続くようになった。
単純にクロチアゼパムに頼ればよいと思い、同じクリニックにかかろうとしたところ閉院していたため、仕事帰りに立ち寄れるクリニックを探し、軽く事情を話して処方を再開してもらい、朝食後1錠と寝る前1錠の服用を続け、急場をしのいだ。
ただ今回は薬をやめるタイミングを掴めなくなりダラダラと飲み続けるうちに、効きが悪くなっているような気が…。
そのことを先生に話すと、クロチアゼパムはあまり連用することを前提としていない薬で、長く服用すると効果を感じられなくなったり依存性も出る、場合によっては記憶が飛びやすくなるのでもし不安定感が続くようなら抗うつ剤に切り替えることも勧められた。
抗うつ剤は、飲み始めると安定して効いてくるまでに2週間ほどかかり、それまでの間に吐き気などの副作用が出る可能性もあり、かつ自身の判断で勝手にはやめられない薬だと説明されて怖気づいた。
ならばいまの薬を減薬、脱却してく方向で何とか対処法を試みることに。
抱えている業務は他のスタッフに切り分け残業をできるだけ抑え、家事も手が抜けるところは抜き、セルフケアに時間をあて、香を焚いてみたりマインドフルネスやヨガを取り入れた。
それですべて補えたわけではないが、不調の引き金となる事柄を改善する健全な取り組みが功を奏し、お守り程度の残薬をキープして受診は終了した。
♥4th.インパクト
そしてこの度、三度目の再発は、公私ともにストレスの高い状態が継続し、地藏現象並びにいくつもの自律神経症状の出現で退職を余儀なくされ、かつ長い年月の中で4度目の症状出現で熟成。適応障害を卒業し気分変調症という診断名が付く強敵に育った。
服薬も安定系3種詰め合わせ。
ただ、自分もその道の専門職のはしくれだけあって、自身の症状を俯瞰的に見たり、先生とのやり取りの仕方も慣れ、対処法をあれこれ試し案外冷静。
しかしこれからの見通しに関してはまったくもってぼんやりしている。
どうなるんだ私。
さいごはいつもこれだ。
「焦らずゆっくり。」
わかっとるがな。
願わくば次のターンは来ないでほしい。うまく付き合って悪化を回避しながらフィニッシュまで逃げ切りたい。
なので今回の就活の開始時期と働き方はよく吟味したいところ。
そうなると 肝は当面のお金のやりくりってところが泣ける。
失業保険の受給期間が切れれば収入はゼロになり、高い税金の支払いだけが残る。
生きていくだけでもこんなにお金がかかる・・・って前も言ったか…。
これだけ税金と保険料を納めて続けているのだから救済はもっと手厚くお願いしたいですね、日本国。
家族と腹いっぱい食べられるくらいの生活は不安なくしていきたいものだ。
今日もいつものスーパーで広告の品と値下げシールが貼られた食品を探すのだ。
やれやれ。
🐵今日の1曲
東日本大震災から14年。東北の地に思いを馳せて。
The Gloaming ~Live at NCH~/ The Pilgrim's Song